コ藏寺を訪れるにはいろいろな道順があるが、山手線五反田駅から歩くのが一番近くわかりやすい。
五反田駅の西口を出て、JR線路の土手沿いの道を、目黒方面へ向かってしばらく歩くと、首都高速二号線にぶつかる。高速道路の高架をくぐると、正面の高台に鉄筋コンクリート造り三階建ての瀟洒で近代的な寺院が見える。これがコ藏寺である。もとは高速道路下のところにあったが、放射二号線の建設のため、昭和40年に現在地へ移った。 まず本尊にお参りしよう。正面の石段をのぼり庫裡の方へ声をかけるとよい。ご住職が不在でも誰かがかならず案内してくれる。
コ藏寺のご本尊は阿弥陀如来である。木彫漆箔の座像で江戸初期の作と推定されている。造高は1.15米ときわめて大きく、品川区内最大の尊像で、区認定文化財となっている。脇侍の観音菩薩と勢至菩薩は立像で、いわゆる弥陀三尊形式である。
本堂左脇外陣に安置される六地蔵尊は、中央二体がやや大きく、座像で両脇の四体が立像、いずれも木彫りで金箔がほどこされている。六地蔵尊は、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)のどこにいても救済の手をさしのべてくれる地蔵尊で、人間は死ぬとこの六道のいずれかに行くといわれ、その六道のそれぞれにあって我々を導いてくださるという。
弥陀三尊、六地蔵尊のほか、コ蔵寺には葬頭河の脱衣婆像、閻魔法王像も安置され、いずれも草創当初からの尊像と伝えられている。
コ藏寺の境内には庚申塔、諸国社号標石(いずれも区認定文化財)、三輪地蔵尊、塩地蔵尊が安置され、人びとの厚い信仰が寄せられた”庶民信仰の寺”であったことを如実にものがたっている。
お参りが済んだら、コ藏寺の墓地をたずねてみるといい。「極楽は西にあるとはいつわりか
皆身(南)にあるぞ おふ(大崎)崎の世も」という辞世を刻んだ墓碑がある。「天保(1832)三壬辰年十一月 俗名傳吉 七拾二歳」とあり、蝋燭立は賽子になっている。このあたりを縄張りとした博徒の墓といわれるが、幕末の頃になると、庶民のなかにも歌ごころのある者が出てきていたことがわかる。世の中をやや斜めにみつめながら、み仏に来世を託した老博徒の心情は、やはり粋というべきなのかもしれない。
参詣が終わったなら当寺周辺の散策をおすすめする。目的をもたない散策もたまにはいいものだ。
谷山橋
高速道路下の広い通りを右へ向かって歩くと目黒川に出る。ここに架かる橋が谷山橋。上大崎村と谷山村の境界に架かっていたので立合橋ともよばれた。コ藏寺境内に安置される庚申塔は、この橋のたもとから移されたもの。村人たちは庚申橋とよんでいた。
国立自然教育園
コ藏寺から高速道路の下の広い道をガードをくぐって歩くと、目黒通りに出る。右前方が迎賓館、国立自然教育園はその左手にある。都内で最も古い原生林が鬱蒼と生い茂った、まったく自然のままの植物園で、四季折々の木漏れ陽が心地よい。
島津山
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五反田駅の北側に広がる丘陵地帯は、静かななかに深い味わいをたたえた史跡の地で、起伏に富んだ格好の散歩道といえよう。 駅前の広い通り(国道一号線)を北へ向う。中原街道である。道はやや登りとなる。この坂が相生坂。
島津山は、清泉女子大のキャンパスになっている。坂の途中あたりから気に入った道を右折して行けば必ず校地に突き当たる。島津山が清泉女子大の校地となったのは戦後のこと。かつては仙台候伊達家の下屋敷地で、明治維新後、島津公爵邸となったことから、島津山とよばれるようになったという。風光明媚の地で、初夏になるとつつじが咲き乱れ、「袖崎躑躅」といわれてつつじの名所となった。つつじは初夏になると、今も変わらずに咲き誇っている。
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