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長命山地藏院徳蔵寺は、天正年間(1573〜91)、梁誉道元大和尚によって武蔵野国荏原郡大崎村 (『コ藏寺雑記』参照)に草創されました。織田信長、豊臣秀吉が政権を握った所謂安土桃山時代の
初期の頃のことです。
「天台宗 コ藏寺−開山梁誉道元 天正年中創建−」 |
−『寺院明細簿』−
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諸国巡錫の途上にあった梁誉道元大和尚がこの地にいたり、現在の地を有縁の地と感得して草庵を 結んだと伝えられています。
徳蔵寺が草創された頃の大崎の地は、武蔵野の一角とはいえ無人の原野ではなく、ある程度の生産力のある中世地方の素朴な文化をもつ地域でした。この地方文化に最も貢献したのが、修験行者であり、仏徒であったことはだれしもが認めるところで、彼らの活躍は民衆
生活の隅々までに浸透しました。修験道の信仰修行の系譜は、役の小角を祖とする仏教の一派で、 鎌倉時代から室町時代にかけて、聖護院流(天台)、三宝院流(真言)の二流が繁栄し、武蔵国にも
修験道場が、数多く開設されました。
品川区内の天台、真言に縁故を有する寺院で、修験行者の 先蹤史料の無い寺院は皆無といっても過言ではなく、当徳蔵寺もその一例といえましょう。
天正18年(1590)、小田原に拠って関東に覇をとなえていた後北条氏が滅びると、徳川家康が関東八か国の領主として江戸へ入部し、慶長8年(1603)に江戸幕府を樹立します。
徳蔵寺周辺の地は天領(幕府の直轄地)として、江戸市中への蔬菜の供給地として重要な役割を果たす ようになり、新田(畑)開発が推しすすめられていきました。
この頃の徳蔵寺が、どのような宗教活動をしていたのかについては、確たる文書等がなく全く不明です。おそらく大崎の地に根を下ろし 、周辺の人びとと共に労働に汗を流しながら仏の道を説きつづけていたにちがいありません。
従来の日本仏教史は、名の知られた名僧や、遇像化された高僧伝にとらわれすぎたきらいが強く、名もなく庶民の中へ埋没していった僧たちの真の姿に眼をふさいでいます。むしろ、これらの僧たちが担った仏教こそが、民衆の中に根ざした日本仏教の姿だったのではないでしょうか。
元和7年(1621)、幕府は全国の寺院に命じて、本末関係を確立させます。諸宗諸本山諸法度がそれです。また寛永17年(1640)には寺請制度が確立しますが、徳蔵寺が山王城琳寺(『〜雑記
』参照)と本末関係を結んだのも、この元和7年のことでしょう。
「コ藏寺−天台宗江戸麹町城琳寺末。長命山地藏院と号す−」 |
−『新編武藏風土記稿』−
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徳蔵寺は、武蔵野台地末端特有の起伏に富んだ地にあり、台地にのぼれば眺望がよく、低地には小川 が流れ、斜面には泉が湧出するという環境豊かな地で、万治年中(1658〜60)以降になると
、周辺には大名や旗本の中屋敷・下屋敷・抱屋敷がつぎつぎと作られました。「天狗の宿り松」(『〜雑記』 参照)で知られる柳生家の屋敷地は徳蔵寺の西方に接していました。
寛永元年(1624)、三代将軍家光が荏原郡品川村周辺に放鷹に訪れたおり、家光最愛の鷹が飛び去って しまい、心を傷めた家光は、徳蔵寺が別当を兼ねていた稲荷社(『〜雑記』参照)に行厨を供え、その帰還
を祈ったところ、たちどころに鷹が舞い戻ったといわれています。(『 大崎町郷土教育資料』大崎町小学校長会編・発行)
この稲荷社は、のちに重箱稲荷とよばれ、霊験顕かな ことで人びとの厚い信仰が寄せられた稲荷社で、家光の供えた行厨は寺宝として当時に所属されていましたが
、残念なことに嘉永3年(1850)の火災によって焼失し、現存していません。
当寺境内に安置される五基の庚申塔(『庶民信仰とコ藏寺』参照)もこの頃のもので、寛永12年(1635 )の庚申塔は、品川区内でも最も古い石塔です。
元禄年間(1688〜703)の頃になると、江戸幕府の政治もすっかり安定し、庶民の間に物見遊山を兼ねた 寺社詣でが盛んになります。観音参りや地蔵尊巡拝が盛んになるのもこの頃のことで、徳蔵寺の本堂に安置
された諸尊像や、境内の観音堂(『〜雑記』参照)に参詣する人びとがあとを絶たなかったというのもこの頃 以降のことでしょう。
享保元年(1716)、紀州の徳川吉宗が第八代の将軍職を継ぐと、庶民を震撼させた 「享保の改革」が行われます。幕府経済のたて直し政策で、とくに農民への圧迫が激しくなり、
各地で百姓一揆が続発しました。この改革に追い討ちをかけるように、大飢饉が諸国を襲い、多数の餓死者が 続出します。所謂「享保の大飢饉」がそれで、徳蔵寺周辺も例外ではありません。こういった時代背景のもとで
法灯を高く掲げ、村人の救済に奔走したのが恵潤大和尚です。徳蔵寺には江戸時代の歴世墓碑で、 碑面には「当院第十九世」と刻してあります。
嘉永3年(1850)、徳蔵寺は本堂をはじめ、寺宝什物のすべてが灰燼と帰し、歴代住職によって書き残された文書の類も、この大火によってすべて焼失しました。
『武江年表』によると、この嘉永三年は、江戸府内外に火災が頻発し、庶民生活を不安の底におとしこんでいた ことがわかりますが、コ藏寺が類焼したのは嘉永3年の年の瀬もおし詰まった12月のことであったと伝えられています。(『〜雑記』参照)
安政3年(1856)、円全大和尚によって茅葺の本堂(30坪)と庫裡(6坪)が再建されますが、頼るべき檀徒家数はわずかに二十数家、しかも、極度の世情不安の状況下にあって、円全大和尚の労苦は文字通り筆舌に尽くせぬものがあったと推察されます。
円全大和尚は、のちに中興開基と称されます。
「中興開基円全法印 安政三年中再建−」
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−『寺院明細簿』−
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慶応4年(1868)、260余年にわたった 徳川幕府が崩壊し、明治新政府が樹立されると神仏分離令が公布され、廃仏毀釈運動が起こり、全国各寺院は一様に荒廃への道を辿ります。徳蔵寺も境内地をすべて官有地とされ、宗教活動にまで支障を来たす状況に陥ります。以来、数年間にわたって無住の時代がつづきますが、明治9年(1876)元海大和尚(『〜雑記』参照)が入山し、その活躍によって寺運興隆への基礎が確立されます。
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